iPadがほしい

自分の場合は「生活に合わせた道具を買い足す」ところから、ものごとの歯車が狂いだすのである。

 

いまは、iPadが欲しいと思っている。

外出先でちょっとしたことを書き留めておくには、スマートフォンでは少々物足りなくなってしまった。かと言って常時ノートPCを持ち歩くのは嫌だし(自分はできるだけ身軽な恰好で回遊するのを是としているので)、となると、大げさでない鞄にも潜ませておけるような、そういう端末ではどうかと。キーボードなんかもつけちゃって。

 

「買い足す」という選択肢が頭をもたげる時点で、自分はどうも、「生きること」について必要以上に前向きになっているようだった。確かにそれは、日々をのりこなすためには悪くない心持ちであるのかもしれないけれど、自分にとっては、あんまりよくない状態であることは確かなのだった。

心地よい緊張感を維持しながら生活の雑事を右から左に処すエネルギーがじゅうぶんに残存しているうちは、こうしたポジティブなマインドでいたって構やしない。というか、そのほうが万事うまくいく(ような気がする)し、新しい幸運だって引き寄せられる(気がする)。

 

しかしながらどうだ、ふと、リズムを失った時。

 

「必要以上に」前向きな状態でしつらえた生活様式は、省エネルギーモードに移行した自分にとっては、相当に高負荷であるに違いないのだ。

「止めること」は、「続けること」と同じかそれ以上に高カロリーな営みだ。ストレスを抱えながら漫然と「続けること」も、相応に高カロリーな営みであるといえる。

 

iPadなんて買ってしまったら──いまはとりわけ、事業の用に供することを主として想定しているのだけれど──ふと電池がきれたとき、たとえば書き留めたアイディアや、実証に乗せつつあるいくつかの施策が急に色あせたように感じられて、とたんに自分というものを重鈍にする、足枷のように感じられるにちがいないのだ。そういうわけで、iPadの購入はも少し先送りにすることとします。