来週末には2本

ライターとして書いているものは、記事の形態を問わず「誰か」のチェックを経て世に出るので、そのへんとても気軽で良いと思う。

こうした機構を(大小を問わず)メディアが備えて当然のものとして捉えるかそうでないか、数年前に起きたキュレーションサイトにまつわるあれこれを遠巻きに見ていたものとしては、残念ながら、「あって当たり前」の営みではないのだと思い知らされてきた。無責任に濫造されたテキストが、もっともらしい顔をして往来を闊歩している。

自分の場合は、公開までに

①専門家によるファクトチェック

②インタビュー対象者本人によるレビュー

のいずれかを経るので、誤った情報を拡散する可能性や、描写された本人が「こんなふうに書いて欲しくなかった」と不快になる可能性ができるかぎり排除されているのがいい。

 

自分が書くもの、その中でも自分以外に何らかの直接的影響を与えるものについては、私自身が責任を持たねばならないと思っていて、しかしながら本心ではそれを徹底的に拒んでいる。なぜなら面倒だから……。

翻って、自分が種々のテキストに触れるとき、そこから与えられるすべての感情や印象、導かれる具体的な行動のすべては、読み手である私自身の責任に帰属するものだと認識している。フィクションを読むときだって、実務書を手に取るときと、本質的には変わらない。

さて、もう一度視点を戻して、自分が供給サイドに陣取ったとき。私自身は、やっぱり、あらゆる責任から逃走したいと思う。私自身の「無責任」を実現するために、私の代わりに「書き手の責任」を担保するしくみを持ったクライアントを見つけられたことは、なかなか悪くないものだと思う。